STS考察ノート

科学技術社会論についての学習メモ

科学論の第三の波(The Third Wave of Science Studies)に対するWynne(2003)の批判の内実について

(2020/12/07 執筆途中)

今日の文献

・Wynne, B. (2003). Seasick on the Third Wave? Subverting the Hegemony of Propositionalism: Response to Collins & Evans (2002). Social Studies of Science, 33(3), 401–417. https://doi.org/10.1177/03063127030333005

読む前と読んだ後の印象とか

大学院での「科学論の第三の波」研究の一環として読んでいるWynne(2003)の読解メモ。

B.Wynneといえば、カンブリア高原の羊農家と科学者の相互作用をめぐる質的調査が有名である。

その研究知見をざっくりまとめると、羊農家と科学者との間では、(コリンズらが言及していたように経験的な知識の有無やお互いに自分の専門知を伝える「相互作用型専門知」を有していなかったというのも当然考えられるが)そもそも対象を認識するフレーミングが異なっていた。それは知識よりももっと深い次元にある、羊農家(科学者)の「アイデンティティ」とか「Social World」が異なることに起因する*1。らしい。

このような浅〜い事前知識を参照すると、今回取り上げるこのPaperでも同様に「公共の科学に参加する人の内実を捉える上では専門知よりもっと適切なカテゴリ(アイデンティティとか)あるんじゃないの?」みたいな批判が来ると予想。

...ただ実際読んでみると予想以上に難解だった。一つの要因として、彼の用いるワードが多様で独特な点が挙げられると思う。propositional decision-questions, public meaning, cultural imagination, reflexive scepticism...とか。あとは自分の力量不足。他の文献も読み進めてこの論文をもう少し大きなコンテクストに位置付けられたら、スムーズに理解できるようになるかなぁ。

↓以下読書メモ

Outline

(Introduction)

批判対象であるCollins et al.(2002)*2の内容をまずざっくり紹介。

Collinらによれば、公共圏における科学的意思決定をめぐって、今後「正統性の問題(the problem of legitimacy)」が「拡大の問題(the problem of extension)」に置き換わってゆくと主張。すなわち、これからの科学論では「どのようにコンセンサスをとれば良いか」から「どこまでコンセンサスをとる利害関係者を拡大させていくべきか」という問いに答えなければいけなくなる。彼らはこの問題を扱うために専門知を再区分し、科学的意思決定に関わるべき専門知を明らかにしようとしている。

一方でWynneの見立てによると、Collinsらが想定している「正統性の問題」について彼らは誤った理解をしているんじゃないか、と指摘している。WynneによればCollinsらは「正統性の問題は、本物の専門知識を持っているが認知されていない人々*3が、命題的な質問(例「英国産牛肉は安全か」など)についての専門家の審議へのアクセスを拒否されていることに根ざしている」という暗黙の前提を持っている*4。それ故Collinsらの目的は、専門知を科学者だけが持ちうる一枚岩なものとして認めるのではなく、現場に根ざした関係者が持つ、実践的で経験に基づく知識も専門知として認めてもらうことであったのだ。

また、Collinsらが提案して貢献型専門知(contributory expertise)の定義についてはWynneも議論の余地なしとして認めているが、重要な限界もあると主張。また公共の問題がどのように枠組み化され、それによって意味を与えられているかについても問うことで、環境問題やリスク問題のような比較的新しい領域のための適切な知識が「市民的認識論(civic epistemology)」の問題としてどのように交渉されるべきかについても扱うとしている。 (彼の言う「市民的認識論」はまだ理解できてません)

序章の最後でWynneは自身のコメントを以下の5つに集約している。Wynneが本論でどのようなことについて言及するかの5項目だと理解しています。

  • (1) 科学的知識が関与している公共の問題は、命題的な問い(科学の表向きの通貨 [the ostensible currency of science])についてのみであり、例えばリスクについてであり、公共の意味(public meanings)については無いというCollinsらの仮定。
  • (2) 知識の異なる資質(qualities)を検討するための正しい入口点は、コリンズが科学的知識の社会学(SSK)で展開した科学的なコアセットである、というCollinsらの仮定。
  • (3) 密教科学の内在主義的社会学(internalist sociology of such esoteric sciences)のみを中心とした、Collinsらの「第二の波」の歴史的展望。
  • (4) 科学に関わるパブリック・ドメインのプロセスを、単に離散的で無関係な「決定」だけで構成されているとするCollinsらの過小評価。
  • (5)西洋科学主義を無批判的に受け入れることに基づく非寛容な文化的想像力を強化する、Collinsらの分析的で規範的なコミットメントにかかるリスク。

Realism and Alternation: The Deletion of Context and Meaning

この節は分からんところ多すぎた。全体として、Collinsらが専門知に対して本質主義的な見方をしていることを批判しているように見える。

Collinsらは専門知を実在的なものとして扱おうとした。

Our question is: ‘If [thanks to SSK] it is no longer clear that scientists and technologists have special access to the truth, why should their advice be specially valued?’ This, we think, is the pressing intellectual problem of the age. Since our answer turns on expertise instead of truth, we will have to treat expertise in the same way as truth was once treated – as something more than the judgement of history, or the outcome of the play of competing attributions. We will have to treat expertise as ‘real’, and develop a ‘normative theory of expertise’. (Collins et al., 2002 p. 237)

我々の質問は、「科学者や技術者が真実に特別にアクセスできることが(SSKのおかげで)明らかになっていないのであれば、なぜ彼らの助言が特別に評価されるべきなのか」ということです。これは、時代の差し迫った知的問題だと私たちは考えています。我々の答えは、真実ではなく専門知識に焦点を当てているので、私たちは、専門知識を、かつて真実が扱われていたのと同じように、歴史の判断や、競合する帰属の遊び(? 訳出むずい)の結果以上のものとして扱わなければならないでしょう。私たちは、専門知識を「実在するもの」として扱い、「専門知識の規範的理論」を開発しなければならないだろう。

だがここで言う'real'が何を意味しているのかは曖昧だ。曖昧だと言いつつ、Wynneは「専門知が'real'であることには同意できる」としている。だが、公共の問題に関する専門知の存在意義、妥当性、権威は条件付きであるとする。これらの条件は、SSKの「方法論的相対主義('methodological relativism’) 」(Collins, 1981)によって引き出せるらしい。(筆者はそもそもこの方法論的相対主義が何なのかが分からないため、ここの部分はさっぱりだった)

Collinsらが「実在性」を志向する背景は、1992年にCollins & Yearley とCallon & Latourによる「認識論的チキン論争」から読み取れるらしい。この論争も今後読まなきゃいけない...

この論争においてCollinsらはCallon & Latourの懐疑主義を批判するために、プラグマティックな必要性として'meta-alternation'を提唱したという。これは「自然」や「人間」、また今回のケースで言えば「専門知」のような'real'なカテゴリーへの本質主義的なコミットメントと構成主義懐疑論(constructivist scepticism)との間に引かれる、普遍的に規定された境界である(???)

ただし、専門知を実在的に考えることが不可避であると認識することは、Collinsらが提唱したような本質主義を採用することを意味するものではない。本質主義に結びつけてしまうと、実在的な専門知の条件性を排除することに繋がってしまう。(どのようなロジックで実在性→本質主義が繋がらないのか、実在的な専門知の条件性とはなんなのかは不明)

分からんところが多すぎてもうこの辺りで心が折れそうになっていたが、最後の段落でCollinsらの本質主義が何をもたらしてしまうのかが示されており、その点は比較的理解できるものだった。

Collins and Evans’ assumption of a ‘contributory’, propositional role, and its essentialist implications, corresponds with a neglect of context and a denial of the ultimate contingency of saliency and meaning. (Wynne, 2003 p. 404)

コリンズとエバンスが「貢献的」な命題的役割を仮定し、本質主義的な意味合いを持つことは、文脈を無視し、意味の究極的な偶発性を否定することに対応している。 ('the ultimate contingency of saliency' って直訳したら「究極性の究極的な偶発性」になるんだけど...どういう意味なのだろう)

要するに、Collinsらは公共圏において問題となるものについて、問題のフレーミングを不必要に削減し、本質化してしまっている。Wynneに言わせれば、Collinsらは公共圏を「何が真実なのか(でないのか)」についてのみ扱う領域だと定義してしまっている(= "They thus define the public domain to be only about whether or not something is true." Wynne, 2003 p. 404)

そういう見方によって見失われてしまうのが「交渉(negotiation)」*5の過程である、とWynneは述べる。これは公共政策のプロセスや自然・社会に影響を及ぼそうとする科学的言説に対して市民がとる反応を指す。これを無視することで、問題のフレーミングの押し付けが起こってしまうのではないか、という指摘を行っている。

This ‘negotiation’ may not be visible because it often occurs by default in more authoritarian mode, as citizens experience the presumptive, non-negotiated imposition of scientific frames of meaning on those public issues and their public actors, by powerful expert bodies. Yet by ignoring these dimensions and building their perspective solely on the negotiation of propositional truth, Collins and Evans risk reinforcing in practice just this authoritarian social idiom, in which public meanings (and identities) are not problematized, but presumed and imposed. (Wynne, 2003 p. 404)          

この「交渉」は、多くの場合、より権威主義的なモードでデフォルトで行われているため、目に見えないかもしれないが、市民は、強力な専門家組織によって、公共の問題とその公共のアクターに対して、科学的な意味のフレームが推定され、交渉されないで押し付けられることを経験している。しかし、これらの次元を無視し、命題的真実の交渉のみに視点を置くことで、コリンズとエヴァンスは、実際には、public meanings(とアイデンティティ)が問題化されるのではなく、推定されて押し付けられるという、まさにこの権威主義的な社会的イディオムを強化する危険性を孕んでいるのである。

Science, ‘Civic Epistemology’ and Public Meanings: Scientism Rules?

Collinsらは知識の根拠について真偽のみを重視し、知識の社会的目的や対象についてを無視している。

これを無視してしまうと、公共圏において「何が有効な知識なのか、何が健全な科学(sound science)なのか」を考えるための前提条件をみすみす逃す事になる。というのは、例えばバイオサイエンスのような新興領域を想定すると、それは科学知の範囲を超える予測不可能な結果を生み出しうるものであり、そんな不定性を抱える科学を推進する倫理的な妥当性があるのかどうか問われるからだ。ただ、制度的な専門家は、問題の意味を「安全性」だと思い込んでいるため、市民が関心を抱く制度的・科学的な傲慢さなどの次元は無視されてきたという*6

なぜCollinsらはこうした問題を無視してしまったのか?Wynneの見立ては以下の通りである。

These questions of what are the issues, and what kind of knowledge is in principle salient, arose in my sheep-farmers case study, which Collins & Evans (2002) use; but but it may be significant that they did not recognize this, because they do not appear to recognize that issues of public meaning or framing of the issue are open, and usually disputed, before we reach the propositional questions about risks, benefits, and so on, which they assume automatically to define the ‘core’ issue. (Wynne, 2003 p. 405)

何が問題なのか、どのような知識が原則的に重要なのか、というこれらの問いは、Collins & Evans (2002)が用いている私の羊飼いの事例研究で生じたものである。だが彼らがこれを認識していなかったことは重要だろう。なぜなら彼らは、リスクや利益などの命題的な問いに到達するより前に、イシューについてのpublic meaningやフレーミングの問題は開かれており、常に論争の対象になっていることを認識していないように見えるからである。彼らはそうした問題を自動的に「コア」の問題を定義するものと想定しているのである。(かなり意訳。,which以下のassumeの目的語は"issues of public meaning or framing of the issue"だろうか。)

The THORP Issue: ‘Plutonium Economy’ or Single Plant?

1977年に提案されたセラフィールド・ウインズスケールの熱酸化物核燃料再処理プラント(thermal oxide nuclear fuels reprocessing plant ; THORP)の事例調査の話。

THORPは核爆弾や将来の高速増殖炉に使用されるプルトニウムを生産し、生産されたプルトニウムは使用済み燃料や核廃棄物、その他の危険な物質と一緒に世界中に定期的に輸送され、いわゆる世界的な「プルトニウム経済」を形成するものと期待されていた。一方で、THORPは核廃棄物の生産量を大幅に増加させるが、その処分手段は確立されない。

The Brent Spar Controversy: Precision versus (Social) Realism?

The Public Domain as ‘Decisionist’

Conclusion

このような公的な問題の意味を課すことを前提とした場合、それはまた、人々に深く異質なアイデンティティーや価値観、オントロジーを挑発的に課すことにもなる。 このように、制度科学が正統性の危機を抱えていることは驚くべきことではないが、これは、結果についての命題交渉から、認識されていないが正当な形での専門知識が排除されることによってのみ引き起こされる正統性の危機ではない。正統性の問題というよりも、制度的な科学文化を通じた非民主的な仮定の意味の押し付けによって引き起こされた正統性の問題なのである。

科学の正統性の問題の本質と原因を誤解している。科学もまた、問題の意味を適切に定義しているとほのめかすことで、彼らは西欧の科学社会の科学的な文化的覇権を強化している。それがどのような波に乗っていようとも、科学論には、科学の文化によって隔離された、公共の意味と重要性に関する文化的・政治的な問いが本質的に何であるかを再確認するために、これ以上に挑戦的な役割があることは間違いありません1

*1:Wynne, B. (1992). Misunderstood misunderstanding: social identities and public uptake of science. Public Understanding of Science, 1(3), 281–304. https://doi.org/10.1088/0963-6625/1/3/004

*2:Collins, H. M., & Evans, R. (2002). The third wave of science studies: Studies of expertise and experience. Social Studies of Science, 32(2), 235–296. https://doi.org/10.1177/0306312702032002003

*3:Collins et al.(2002)ではこうした人々の持つ専門知を'experience-based expertise'と定義している。ここで言う「本物の専門知識を持っているが認知されていない人々」は 例えばWynneが扱ったカンブリア高原の羊農家が挙げられるだろう

*4:Wynne(2003) p. 402

*5:この「交渉」については本文中だとなかなか捉え難い概念なのだが、Wynne(2003)は脚注10にて次のように述べている。 "As so-called Wave-Two science studies authors such as Jasanoff (1990), Ezrahi (1990) and Wynne (1982) have shown years ago, in practice the ‘negotiation’ of public meanings takes place not before the conduct of propositional issues, but tacitly through that very process itself." p. 414

*6:Wynne, B. (2001). Creating Public Alienation: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs. Science as Culture, 10(4), 445–481. https://doi.org/10.1080/09505430120093586

『科学の解釈学』第二部 第7章 知のネットワークとパラダイム

[今日の文献] 科学の解釈学 (講談社学術文庫) | 野家啓一 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon

これの第二部第7章。科学哲学の領域って実在論vs反実在論とか、批判的合理主義(ポパー派)vsパラダイム論(クーン派)の論争やってたけど、もっとそれ以前に着目すべきものあるよね〜みたいな導入でクワインの「知のネットワーク」から始まり、クーンのパラダイム論を深堀りする章。現在I.ハッキングの『表現と介入』を読んでいて、プラグマティズムってなんなんやろな〜ってことを知りたくて、とりあえず本書の第二部全体を読もうと試みたのだが、ターゲットであるプラグマティズム、そしてネオ・プラグマティズムまでの道がまあ遠い。第7章についてはプラグマティズムのプの字も出てこない。

この章で野家先生は全体としてクーンのパラダイム論の論敵だったデイヴィッドソンとかクリプキを嗜めつつ、クワインの知のネットワーク理論との接合を図っている。

筆者はRoam Researchというアウトライナーのようなサービスを使ってメモをしているのだが、如何せんこのサービスは見やすい共有方法が少ない。色々試して現時点で一番見やすいんじゃないかと考えられるのがこのはてなブログに丸ごとコピペする戦法であった。箇条書き特有の「これどうやって繋がってるん?」という記述ももちろんあろうがただのメモ書きなので許して欲しい。

アウトプット兼アーカイブとしてこのはてブにメモを残すのは我ながらなかなかナイスアイデアだと思うので、ざっくばらんではあるが定期的に更新する予定である。

↓以下読書メモ

  • 7 知のネットワークとパラダイム

    • 1 経験主義の二つのドグマ

      • 「経験主義の二つのドグマ」(1951)

        • 論理実証主義の前提を明るみに出す
        • 前提 :
          • (1)分析的心理と総合的真理の二分法
            • 事実とは無関係に<意味>のみによって真偽の決まる言明(分析言明)
            • 経験的事実との照合によって初めて真偽の決まる言明(総合言明)
          • (2)還元主義
            • "還元主義の教義"
              • 理論の文には現象にかんする文に変換できる
              • →原子や電流等の理論的対象について語るとき、それを文字通りに理解してはならない
              • 論理学者の例
                • F.P.ラムジー
                  • 理論的対象の名辞の除去
                • ウィリアム・クレイグ
                  • 観察語しか含まない公理化可能な理論
      • 還元主義テーゼを巡るクワインの主張

        • 古典的経験論
          • ヒューム・ロック
          • 「名辞」の有意味性を感覚印象との対応に求める
        • 論理実証主義
          • 「言明」を有意味性の最小単位とする (フレーゲの影響)
          • 言明全体が感覚与件言語に翻訳可能であることを要求
        • クワインの主張
          • 「孤立した言明が単独で『験証』あるいは『反証』されることはありえない!」
          • 経験的有意味性の単位は科学の全体(the whole of science)
          • →これを認識論的「全体論(holism)」、知のネットワーク理論と呼ぶ
      • 認識論的全体論の見方

        • 知識や信念の総体 = 相互に構造的に連関しあった言明群、「ネットワーク」だ!
          • 経験を境界条件として持つ「力の場」
          • 経験と接触するのはその<周辺部>のみ。
          • 我々は時に経験と知識の矛盾が起こるのを目の当たりにする。それは通常反証と呼ばれている。だが、反証が行われたからといってその知識をすぐに捨て去る必要はない。
          • →そこでは「場の内部における再調整(readjustment)」が開始されるのだ。
        • (知識の全体論あるいはネットワーク理論の立場を取る限り)周辺部が経験と接触するのだから、単独の言明が経験によって反証されることもありえない。
        • →「決定実験の不可能性」、「デュエム・クワイン = テーゼ」に繋がる
      • 知のネットワーク理論パラダイム論の関係性

        • クワイン自身は科学理論の変革について「保守主義(conservatism)」を主張している
          • どういうこと?
            • 体系全体が反例的経験と衝突して揺さぶられ、再調整を強いられた場合、われわれは体系の均衡をもたらす可能な複数の選択肢の中から、「全体系をできるだけ乱すまいとするわれわれの本来の性向(natural tendency)」にしたがって選択を行う
          • 一見、クーンの「科学革命」論とは両立しえないように見えるが...
        • →両立は可能!であることを見るためにクーンの概念を確認しよう
          • クーンのパラダイム
            • 研究活動を統御する<模範事例> あるいは <規範>として機能する一群の言明
            • 直接経験にさらされて真偽が問われるような言明ではない。
            • パラダイム」的言明は、関連する補助仮説によって保護されている。
          • 科学革命におけるネットワークの行方
            • 科学革命は全く新しい知のネットワークが取って代わる事態を指すものではない。
            • 破棄されるのは、あくまで一部の「パラダイム」的言明
              • ただしそれらの言明はネットワークの中心にあるため、その変更はただちに体系全体に波及する。
        • 知のネットワーク理論を通約可能性の問題に応用する
          • 「このように考えるならば、われわれは係争中の「通約不可能性」の問題にも、一つの見通しを得ることができる。「科学革命」の前後を通じて、知のネットワークは全体としては<連続的>であるが、その内部の「布置の転換」という観点から見れば<非連続的>なのである」No.2916 #Quote
          • ex. ニュートンアインシュタインの「質量」概念
            • われわれの「重さ」についての日常的経験をも含めた知のネットワーク全体としての連続性という観点でみた場合...
              • 両者の概念は「通約可能」
            • 力学理論内部における諸概念間の布置の中に占める「位置価」という観点でみた場合...
              • 両者の概念は「通約不可能」
          • 「要するに、『通約不可能性』とは、知のネットワークを形成する複雑にからまり合った<関係の織糸>を丹念に解きほぐす事によって答えられるべき問題なのである」No.2916 #Quote
    • 2 経験主義の第三のドグマ

      • D.デイヴィッドソンによる概念的相対主義

        • 概念的相対主義
          • 「実在それ自身が枠組[概念図式]に対して相対的なのであり、ある体系で実在と見なされるものは、別の体系では実在ではありえない」とする考え方
          • パラダイムは概念的相対主義だとして批判
        • このような<図式>と<内容>の二元論は経験主義の第三のドグマに他ならないと主張。
        • <図式>と<内容>の二元論として念頭に置かれているものとは...?
          • クーンのパラダイム
          • カントによる悟性の形式(カテゴリー)と感性的内容の峻別
      • パラダイム論は「空虚な形式」と「盲目的な内容」から成る二元論か?

        • →異なる。
        • クーンのいう「パラダイム」的言明は、カントの「カテゴリー」のようにアプリオリなものではない。むしろアポステリオリ。
      • クーン自身の論述

        • パラダイム再論」(1974)
          • 「専門母型(disciplinary matrix)」
            • パラダイム」を再編成し、より具体的な内容を与えたもの
            • 「職業としてある専門分野で研究に従事している人々がそれを共通に所有している・・・順序づけられた様々な種類の要素からなっている」一群の前提のこと。
            • 構成要素
              • 記号的一般化
              • モデル
              • 見本例 (exemplars)
                • 「具体的な問題の解き方であって、それぞれの集団において極く普通の意味でパラダイム的なものとして認められている」言明
                • 「ある共同体の標準的な模範事例」
          • 見本例(exemplars)が最も重要
            • 力学の教科書に載っている典型的な例題が「見本例」となる。
            • それを解くことを通じて、われわれは科学者共同体が期待し要求する「問題解決能力」を身につける。
            • 一方で、「見本例」は形式的な「規則」と同一視されてはならない。
              • 方程式を習っていない小学生が鶴亀算や植木算を解くとき、彼は形式的なアルゴリズムを適用しているのではなく、模範事例と当の問題との間に「類似性」を見出す事によって解決へと至る。
        • →「パラダイム」はアプリオリな規則ではなく、成員の資格を得るための「通過儀礼」の役目をはたす問題演習であり、その過程において模範事例として機能するアポステリオリな「見本例」なのである。
      • これまでの議論と知のネットワーク理論との関連性

        • 知のネットワークは「中心-周縁」構造を持つ
        • 「専門母型」の構成要素をなす諸言明であるパラダイム言明は、知のネットワークの中心部に位置する
        • パラダイム言明は、体系内部において<規範>的に、<アプリオリ>的に機能する。経験に先立ち、経験を<構成>する要素としてその力を発揮しうる。
        • 一方でその機能は、知のネットワークの内部における「位置価」によって与えられたもので、言明の種別を決定するような言明に本来的に備わっている性質ではない。
        • パラダイム言明 : 周縁部に位置する他の経験的言明 = 分析言明 : 総合言明
          • どちらも一線を画すことはできない。知のネットワークの内部における相対的な位置関係によってだけしか区別できない。
          • それを「図式と内容の二元論」や「第三のドグマ」と呼ぶならば、それは知識の構造を解明するためにわれわれが引き受けざるをえない不可避のドグマである。
    • 3 「指示の因果説」の再検討

      • S.クリプキの「本質主義形而上学

        • クリプキの『名指しと必然性』
          • (1)同一性の必然性
          • (2)固有名の固定性
          • (3)指示の因果論的見取り図
          • 以上の諸テーゼを元に、これまで分析哲学の内部に擁護されてきた「指示(reference)」の成立に関する「公認学説」の徹底的批判を企てる。
        • 記述群理論とは
          • フレーゲの考え
            • 固有名は一般に意義(Sinn)と意味(Bedeutung)を持つ
            • 固有名の意義は「指示対象の与えられ方」で、意味は「指示対象」
            • ex. 宵の明星
              • 「夕方に見える明るい星」という意義を介して「金星」という対象を指示する
              • 宵の明星と明けの明星は、意味(指示対象)は同一でも意義が異なる。
          • フレーゲの論の弱点
          • ヴィトゲンシュタインらの補強
            • 「名前の指示対象は単一の記述ではなく、一群または一団の記述によって決定される」
            • →「記述群理論」と呼ばれるテーゼ
        • クリプキの批判
          • 「固有名の記述的意味は指示対象の決定に際してなんの役割も果たさない」
      • クリプキの指示理論

        • 以下の二つのテーゼに分けることができる。
          • (1) 指示対象の決定に「記述的意味」は関与しない(非記述テーゼ)
          • (2) 指示対象は共同体によって伝達される「歴史的連鎖」によって決定される (歴史的連鎖テーゼ)
        • (1)と(2)は互いに独立。
        • 野家先生は、(1)を放棄しても(2)は保持可能と考える。

クリプキの指示理論の(1)を反証する過程とパラダイム論との関係性について読解するところで今日は力尽きました。

おわり

科学的合理さと感覚的な正しさ

 


科学的に正しくないものは、世の中にたくさんある。

例として代替治療(alternative medicine)の内の鍼治療(acupuncture)を挙げる。
鍼治療は、中国医学の代表的な治療法の一つであり、針を経穴(いわゆるツボ)に刺して気の流れを制御して、病気を治す技術である。
そしてこの背景には、陰陽五行説と呼ばれる、「人間の健康は陰の『気』と陽の『気』のバランスが保たれることで生じており、どちらかが増えすぎても減りすぎても体調を崩すことになる」といった内容の基礎理論がある。

では、この「気」のようなものが存在するかと言われれば、解剖学的には一切発見されていない。つまり、正統派の医学からすれば、陰陽五行説に基づいている鍼治療は受け入れられない治療法なのである。代替治療は、このように正統な医学の観点に反する治療法がほとんどである。

けれども、鍼治療が社会的に制限されているかと言われればそんなことはない。整体に行けば鍼治療は受けられるし、効果がないわけでもない。科学的には正しくなくても、私たちは鍼治療を利用することができる。また症状によっては、普通に病院に行って治療してもらうより、鍼治療の方が安上がりで済む場合もあるかもしれない。

他にも代替治療にはヨガやマッサージなど、馴染みのあるものが多い。

生活レベルで、私たちは科学的ではないものを受け入れている。

 

 

似たようなことを、よりスケールの大きい政策レベルで考えてみる。「科学的に合理的ではないものは、政策的に推進すべきではない」という主張が仮にあった場合、それは本当だろうか。

ここでは水俣病を例に考える。

水俣病は、熊本県水俣市にあった「チッソ」という企業が排出していた有機水銀廃液が原因で生じた公害病である。この廃液が水俣湾の魚の体に蓄積して、それを食べる漁民の体に水銀が蓄積して、水俣病を引き起こした、とされている。

水俣病が発見されたのは1956年である。
当時、チッソの工場から排出される廃液が原因であろうことはすぐに疑われたが、廃液と水俣病の因果関係は、水俣病が発見されてから12年後の1968年にようやく政府によって認定されることになる。

1959年には、「水俣病の原因は(チッソ水俣工場が排出する)有機水銀である」とする有機水銀説が熊本大学の研究班によってかろうじて提唱されたが、それ以前は「チッソ水俣工場の廃液が水俣病の原因である」と断定できるまでの証拠はなかった。
有機水銀説が出た後、泥や人体から有機水銀が検出されたために仮説は検証されたが、それが他の仮説を退けるほど強い検証ではなかったために、翌年にアミン説などが提唱されるのを許す結果となった。そのため、有機水銀説が提唱された時点では「水俣病の原因は不明」という立場が科学的にはより合理的であった。
つまり、1959年、またそれ以前に、もし政府がチッソ水俣工場を水俣病の原因と断定して操業の停止を命じていたら、当時の基準で言えば「科学的根拠」に基づかずに、科学的に合理的でない判断を下したということになる。

だが、いくら科学的に根拠が弱かったとしても、政府がそれで何もしなかったせいでより多くの人命が失われることになった。また、一般的な感覚で見れば、チッソの廃液が水俣病を引き起こしているように見えるのは明らかであった。ならば、政府は科学者にとって妥当な科学的合理性よりも、人々にとって妥当な社会的合理性を優先すべきだったのではないか。水俣病はこのことを教訓として残した事例であると言える。

 

 

代替医療を、この政策的な話に絡めるとどうなるか。

代替医療を医療政策の面で社会的に是認することは、正統な科学に基づいた医学の重要性を相対的に低くしたり、効果が実証されていない治療法が蔓延して本当に効果のある治療法が遅れてしまうことで測り知れない社会的損失を招いたりするかもしれない。
しかし、プラシーボ効果だろうが何だろうが、万が一治る可能性があるなら、他の治療手段が尽きた患者に非正統な治療を試すのは結果として患者の命を救うかもしれない。
要するに一長一短であり、決して蔑ろにされるべきではないものであると言えよう。

 


以上まとめると、物事の判断において大事なことは、科学的な(広く言えば知的な)合理性が保たれた穏健な立場に固執するのではなく、私たちが感覚的に正しいと考えるものも判断基準として、それらの中でうまくバランスをとることだと考える。

 

 

 

参考資料
水俣病の発生とその原因 - 水俣病資料館
http://www.minamata195651.jp/pdf/kyoukun_2007/kyoukun04.pdf