『科学の解釈学』第二部 第7章 知のネットワークとパラダイム
[今日の文献] 科学の解釈学 (講談社学術文庫) | 野家啓一 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
これの第二部第7章。科学哲学の領域って実在論vs反実在論とか、批判的合理主義(ポパー派)vsパラダイム論(クーン派)の論争やってたけど、もっとそれ以前に着目すべきものあるよね〜みたいな導入でクワインの「知のネットワーク」から始まり、クーンのパラダイム論を深堀りする章。現在I.ハッキングの『表現と介入』を読んでいて、プラグマティズムってなんなんやろな〜ってことを知りたくて、とりあえず本書の第二部全体を読もうと試みたのだが、ターゲットであるプラグマティズム、そしてネオ・プラグマティズムまでの道がまあ遠い。第7章についてはプラグマティズムのプの字も出てこない。
この章で野家先生は全体としてクーンのパラダイム論の論敵だったデイヴィッドソンとかクリプキを嗜めつつ、クワインの知のネットワーク理論との接合を図っている。
筆者はRoam Researchというアウトライナーのようなサービスを使ってメモをしているのだが、如何せんこのサービスは見やすい共有方法が少ない。色々試して現時点で一番見やすいんじゃないかと考えられるのがこのはてなブログに丸ごとコピペする戦法であった。箇条書き特有の「これどうやって繋がってるん?」という記述ももちろんあろうがただのメモ書きなので許して欲しい。
アウトプット兼アーカイブとしてこのはてブにメモを残すのは我ながらなかなかナイスアイデアだと思うので、ざっくばらんではあるが定期的に更新する予定である。
↓以下読書メモ
7 知のネットワークとパラダイム
1 経験主義の二つのドグマ
「経験主義の二つのドグマ」(1951)
還元主義テーゼを巡るクワインの主張
- 古典的経験論
- ヒューム・ロック
- 「名辞」の有意味性を感覚印象との対応に求める
- 論理実証主義
- 「言明」を有意味性の最小単位とする (フレーゲの影響)
- 言明全体が感覚与件言語に翻訳可能であることを要求
- クワインの主張
- 「孤立した言明が単独で『験証』あるいは『反証』されることはありえない!」
- 経験的有意味性の単位は科学の全体(the whole of science)
- →これを認識論的「全体論(holism)」、「知のネットワーク理論」と呼ぶ
- 古典的経験論
認識論的全体論の見方
- 知識や信念の総体 = 相互に構造的に連関しあった言明群、「ネットワーク」だ!
- (知識の全体論あるいはネットワーク理論の立場を取る限り)周辺部が経験と接触するのだから、単独の言明が経験によって反証されることもありえない。
- →「決定実験の不可能性」、「デュエム・クワイン = テーゼ」に繋がる
知のネットワーク理論とパラダイム論の関係性
- クワイン自身は科学理論の変革について「保守主義(conservatism)」を主張している
- どういうこと?
- 体系全体が反例的経験と衝突して揺さぶられ、再調整を強いられた場合、われわれは体系の均衡をもたらす可能な複数の選択肢の中から、「全体系をできるだけ乱すまいとするわれわれの本来の性向(natural tendency)」にしたがって選択を行う
- 一見、クーンの「科学革命」論とは両立しえないように見えるが...
- どういうこと?
- →両立は可能!であることを見るためにクーンの概念を確認しよう
- 知のネットワーク理論を通約可能性の問題に応用する
- 「このように考えるならば、われわれは係争中の「通約不可能性」の問題にも、一つの見通しを得ることができる。「科学革命」の前後を通じて、知のネットワークは全体としては<連続的>であるが、その内部の「布置の転換」という観点から見れば<非連続的>なのである」No.2916 #Quote
- ex. ニュートンとアインシュタインの「質量」概念
- われわれの「重さ」についての日常的経験をも含めた知のネットワーク全体としての連続性という観点でみた場合...
- 両者の概念は「通約可能」
- 力学理論内部における諸概念間の布置の中に占める「位置価」という観点でみた場合...
- 両者の概念は「通約不可能」
- われわれの「重さ」についての日常的経験をも含めた知のネットワーク全体としての連続性という観点でみた場合...
- 「要するに、『通約不可能性』とは、知のネットワークを形成する複雑にからまり合った<関係の織糸>を丹念に解きほぐす事によって答えられるべき問題なのである」No.2916 #Quote
- クワイン自身は科学理論の変革について「保守主義(conservatism)」を主張している
2 経験主義の第三のドグマ
D.デイヴィッドソンによる概念的相対主義
パラダイム論は「空虚な形式」と「盲目的な内容」から成る二元論か?
クーン自身の論述
これまでの議論と知のネットワーク理論との関連性
- 知のネットワークは「中心-周縁」構造を持つ
- 「専門母型」の構成要素をなす諸言明であるパラダイム言明は、知のネットワークの中心部に位置する
- パラダイム言明は、体系内部において<規範>的に、<アプリオリ>的に機能する。経験に先立ち、経験を<構成>する要素としてその力を発揮しうる。
- 一方でその機能は、知のネットワークの内部における「位置価」によって与えられたもので、言明の種別を決定するような言明に本来的に備わっている性質ではない。
- パラダイム言明 : 周縁部に位置する他の経験的言明 = 分析言明 : 総合言明
- どちらも一線を画すことはできない。知のネットワークの内部における相対的な位置関係によってだけしか区別できない。
- それを「図式と内容の二元論」や「第三のドグマ」と呼ぶならば、それは知識の構造を解明するためにわれわれが引き受けざるをえない不可避のドグマである。
3 「指示の因果説」の再検討
S.クリプキの「本質主義的形而上学」
- クリプキの『名指しと必然性』
- (1)同一性の必然性
- (2)固有名の固定性
- (3)指示の因果論的見取り図
- 以上の諸テーゼを元に、これまで分析哲学の内部に擁護されてきた「指示(reference)」の成立に関する「公認学説」の徹底的批判を企てる。
- 公認学説 : フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、サールらが展開した「記述群理論」
- 記述群理論とは
- フレーゲの考え
- 固有名は一般に意義(Sinn)と意味(Bedeutung)を持つ
- 固有名の意義は「指示対象の与えられ方」で、意味は「指示対象」
- ex. 宵の明星
- 「夕方に見える明るい星」という意義を介して「金星」という対象を指示する
- 宵の明星と明けの明星は、意味(指示対象)は同一でも意義が異なる。
- フレーゲの論の弱点
- ヴィトゲンシュタインらの補強
- 「名前の指示対象は単一の記述ではなく、一群または一団の記述によって決定される」
- →「記述群理論」と呼ばれるテーゼ
- フレーゲの考え
- クリプキの批判
- 「固有名の記述的意味は指示対象の決定に際してなんの役割も果たさない」
- クリプキの『名指しと必然性』
クリプキの指示理論
- 以下の二つのテーゼに分けることができる。
- (1) 指示対象の決定に「記述的意味」は関与しない(非記述テーゼ)
- (2) 指示対象は共同体によって伝達される「歴史的連鎖」によって決定される (歴史的連鎖テーゼ)
- (1)と(2)は互いに独立。
- 野家先生は、(1)を放棄しても(2)は保持可能と考える。
- 以下の二つのテーゼに分けることができる。
クリプキの指示理論の(1)を反証する過程とパラダイム論との関係性について読解するところで今日は力尽きました。
おわり