STS考察ノート

科学技術社会論についての学習メモ

科学論の第三の波(The Third Wave of Science Studies)に対するWynne(2003)の批判の内実について

(2020/12/07 執筆途中)

今日の文献

・Wynne, B. (2003). Seasick on the Third Wave? Subverting the Hegemony of Propositionalism: Response to Collins & Evans (2002). Social Studies of Science, 33(3), 401–417. https://doi.org/10.1177/03063127030333005

読む前と読んだ後の印象とか

大学院での「科学論の第三の波」研究の一環として読んでいるWynne(2003)の読解メモ。

B.Wynneといえば、カンブリア高原の羊農家と科学者の相互作用をめぐる質的調査が有名である。

その研究知見をざっくりまとめると、羊農家と科学者との間では、(コリンズらが言及していたように経験的な知識の有無やお互いに自分の専門知を伝える「相互作用型専門知」を有していなかったというのも当然考えられるが)そもそも対象を認識するフレーミングが異なっていた。それは知識よりももっと深い次元にある、羊農家(科学者)の「アイデンティティ」とか「Social World」が異なることに起因する*1。らしい。

このような浅〜い事前知識を参照すると、今回取り上げるこのPaperでも同様に「公共の科学に参加する人の内実を捉える上では専門知よりもっと適切なカテゴリ(アイデンティティとか)あるんじゃないの?」みたいな批判が来ると予想。

...ただ実際読んでみると予想以上に難解だった。一つの要因として、彼の用いるワードが多様で独特な点が挙げられると思う。propositional decision-questions, public meaning, cultural imagination, reflexive scepticism...とか。あとは自分の力量不足。他の文献も読み進めてこの論文をもう少し大きなコンテクストに位置付けられたら、スムーズに理解できるようになるかなぁ。

↓以下読書メモ

Outline

(Introduction)

批判対象であるCollins et al.(2002)*2の内容をまずざっくり紹介。

Collinらによれば、公共圏における科学的意思決定をめぐって、今後「正統性の問題(the problem of legitimacy)」が「拡大の問題(the problem of extension)」に置き換わってゆくと主張。すなわち、これからの科学論では「どのようにコンセンサスをとれば良いか」から「どこまでコンセンサスをとる利害関係者を拡大させていくべきか」という問いに答えなければいけなくなる。彼らはこの問題を扱うために専門知を再区分し、科学的意思決定に関わるべき専門知を明らかにしようとしている。

一方でWynneの見立てによると、Collinsらが想定している「正統性の問題」について彼らは誤った理解をしているんじゃないか、と指摘している。WynneによればCollinsらは「正統性の問題は、本物の専門知識を持っているが認知されていない人々*3が、命題的な質問(例「英国産牛肉は安全か」など)についての専門家の審議へのアクセスを拒否されていることに根ざしている」という暗黙の前提を持っている*4。それ故Collinsらの目的は、専門知を科学者だけが持ちうる一枚岩なものとして認めるのではなく、現場に根ざした関係者が持つ、実践的で経験に基づく知識も専門知として認めてもらうことであったのだ。

また、Collinsらが提案して貢献型専門知(contributory expertise)の定義についてはWynneも議論の余地なしとして認めているが、重要な限界もあると主張。また公共の問題がどのように枠組み化され、それによって意味を与えられているかについても問うことで、環境問題やリスク問題のような比較的新しい領域のための適切な知識が「市民的認識論(civic epistemology)」の問題としてどのように交渉されるべきかについても扱うとしている。 (彼の言う「市民的認識論」はまだ理解できてません)

序章の最後でWynneは自身のコメントを以下の5つに集約している。Wynneが本論でどのようなことについて言及するかの5項目だと理解しています。

  • (1) 科学的知識が関与している公共の問題は、命題的な問い(科学の表向きの通貨 [the ostensible currency of science])についてのみであり、例えばリスクについてであり、公共の意味(public meanings)については無いというCollinsらの仮定。
  • (2) 知識の異なる資質(qualities)を検討するための正しい入口点は、コリンズが科学的知識の社会学(SSK)で展開した科学的なコアセットである、というCollinsらの仮定。
  • (3) 密教科学の内在主義的社会学(internalist sociology of such esoteric sciences)のみを中心とした、Collinsらの「第二の波」の歴史的展望。
  • (4) 科学に関わるパブリック・ドメインのプロセスを、単に離散的で無関係な「決定」だけで構成されているとするCollinsらの過小評価。
  • (5)西洋科学主義を無批判的に受け入れることに基づく非寛容な文化的想像力を強化する、Collinsらの分析的で規範的なコミットメントにかかるリスク。

Realism and Alternation: The Deletion of Context and Meaning

この節は分からんところ多すぎた。全体として、Collinsらが専門知に対して本質主義的な見方をしていることを批判しているように見える。

Collinsらは専門知を実在的なものとして扱おうとした。

Our question is: ‘If [thanks to SSK] it is no longer clear that scientists and technologists have special access to the truth, why should their advice be specially valued?’ This, we think, is the pressing intellectual problem of the age. Since our answer turns on expertise instead of truth, we will have to treat expertise in the same way as truth was once treated – as something more than the judgement of history, or the outcome of the play of competing attributions. We will have to treat expertise as ‘real’, and develop a ‘normative theory of expertise’. (Collins et al., 2002 p. 237)

我々の質問は、「科学者や技術者が真実に特別にアクセスできることが(SSKのおかげで)明らかになっていないのであれば、なぜ彼らの助言が特別に評価されるべきなのか」ということです。これは、時代の差し迫った知的問題だと私たちは考えています。我々の答えは、真実ではなく専門知識に焦点を当てているので、私たちは、専門知識を、かつて真実が扱われていたのと同じように、歴史の判断や、競合する帰属の遊び(? 訳出むずい)の結果以上のものとして扱わなければならないでしょう。私たちは、専門知識を「実在するもの」として扱い、「専門知識の規範的理論」を開発しなければならないだろう。

だがここで言う'real'が何を意味しているのかは曖昧だ。曖昧だと言いつつ、Wynneは「専門知が'real'であることには同意できる」としている。だが、公共の問題に関する専門知の存在意義、妥当性、権威は条件付きであるとする。これらの条件は、SSKの「方法論的相対主義('methodological relativism’) 」(Collins, 1981)によって引き出せるらしい。(筆者はそもそもこの方法論的相対主義が何なのかが分からないため、ここの部分はさっぱりだった)

Collinsらが「実在性」を志向する背景は、1992年にCollins & Yearley とCallon & Latourによる「認識論的チキン論争」から読み取れるらしい。この論争も今後読まなきゃいけない...

この論争においてCollinsらはCallon & Latourの懐疑主義を批判するために、プラグマティックな必要性として'meta-alternation'を提唱したという。これは「自然」や「人間」、また今回のケースで言えば「専門知」のような'real'なカテゴリーへの本質主義的なコミットメントと構成主義懐疑論(constructivist scepticism)との間に引かれる、普遍的に規定された境界である(???)

ただし、専門知を実在的に考えることが不可避であると認識することは、Collinsらが提唱したような本質主義を採用することを意味するものではない。本質主義に結びつけてしまうと、実在的な専門知の条件性を排除することに繋がってしまう。(どのようなロジックで実在性→本質主義が繋がらないのか、実在的な専門知の条件性とはなんなのかは不明)

分からんところが多すぎてもうこの辺りで心が折れそうになっていたが、最後の段落でCollinsらの本質主義が何をもたらしてしまうのかが示されており、その点は比較的理解できるものだった。

Collins and Evans’ assumption of a ‘contributory’, propositional role, and its essentialist implications, corresponds with a neglect of context and a denial of the ultimate contingency of saliency and meaning. (Wynne, 2003 p. 404)

コリンズとエバンスが「貢献的」な命題的役割を仮定し、本質主義的な意味合いを持つことは、文脈を無視し、意味の究極的な偶発性を否定することに対応している。 ('the ultimate contingency of saliency' って直訳したら「究極性の究極的な偶発性」になるんだけど...どういう意味なのだろう)

要するに、Collinsらは公共圏において問題となるものについて、問題のフレーミングを不必要に削減し、本質化してしまっている。Wynneに言わせれば、Collinsらは公共圏を「何が真実なのか(でないのか)」についてのみ扱う領域だと定義してしまっている(= "They thus define the public domain to be only about whether or not something is true." Wynne, 2003 p. 404)

そういう見方によって見失われてしまうのが「交渉(negotiation)」*5の過程である、とWynneは述べる。これは公共政策のプロセスや自然・社会に影響を及ぼそうとする科学的言説に対して市民がとる反応を指す。これを無視することで、問題のフレーミングの押し付けが起こってしまうのではないか、という指摘を行っている。

This ‘negotiation’ may not be visible because it often occurs by default in more authoritarian mode, as citizens experience the presumptive, non-negotiated imposition of scientific frames of meaning on those public issues and their public actors, by powerful expert bodies. Yet by ignoring these dimensions and building their perspective solely on the negotiation of propositional truth, Collins and Evans risk reinforcing in practice just this authoritarian social idiom, in which public meanings (and identities) are not problematized, but presumed and imposed. (Wynne, 2003 p. 404)          

この「交渉」は、多くの場合、より権威主義的なモードでデフォルトで行われているため、目に見えないかもしれないが、市民は、強力な専門家組織によって、公共の問題とその公共のアクターに対して、科学的な意味のフレームが推定され、交渉されないで押し付けられることを経験している。しかし、これらの次元を無視し、命題的真実の交渉のみに視点を置くことで、コリンズとエヴァンスは、実際には、public meanings(とアイデンティティ)が問題化されるのではなく、推定されて押し付けられるという、まさにこの権威主義的な社会的イディオムを強化する危険性を孕んでいるのである。

Science, ‘Civic Epistemology’ and Public Meanings: Scientism Rules?

Collinsらは知識の根拠について真偽のみを重視し、知識の社会的目的や対象についてを無視している。

これを無視してしまうと、公共圏において「何が有効な知識なのか、何が健全な科学(sound science)なのか」を考えるための前提条件をみすみす逃す事になる。というのは、例えばバイオサイエンスのような新興領域を想定すると、それは科学知の範囲を超える予測不可能な結果を生み出しうるものであり、そんな不定性を抱える科学を推進する倫理的な妥当性があるのかどうか問われるからだ。ただ、制度的な専門家は、問題の意味を「安全性」だと思い込んでいるため、市民が関心を抱く制度的・科学的な傲慢さなどの次元は無視されてきたという*6

なぜCollinsらはこうした問題を無視してしまったのか?Wynneの見立ては以下の通りである。

These questions of what are the issues, and what kind of knowledge is in principle salient, arose in my sheep-farmers case study, which Collins & Evans (2002) use; but but it may be significant that they did not recognize this, because they do not appear to recognize that issues of public meaning or framing of the issue are open, and usually disputed, before we reach the propositional questions about risks, benefits, and so on, which they assume automatically to define the ‘core’ issue. (Wynne, 2003 p. 405)

何が問題なのか、どのような知識が原則的に重要なのか、というこれらの問いは、Collins & Evans (2002)が用いている私の羊飼いの事例研究で生じたものである。だが彼らがこれを認識していなかったことは重要だろう。なぜなら彼らは、リスクや利益などの命題的な問いに到達するより前に、イシューについてのpublic meaningやフレーミングの問題は開かれており、常に論争の対象になっていることを認識していないように見えるからである。彼らはそうした問題を自動的に「コア」の問題を定義するものと想定しているのである。(かなり意訳。,which以下のassumeの目的語は"issues of public meaning or framing of the issue"だろうか。)

The THORP Issue: ‘Plutonium Economy’ or Single Plant?

1977年に提案されたセラフィールド・ウインズスケールの熱酸化物核燃料再処理プラント(thermal oxide nuclear fuels reprocessing plant ; THORP)の事例調査の話。

THORPは核爆弾や将来の高速増殖炉に使用されるプルトニウムを生産し、生産されたプルトニウムは使用済み燃料や核廃棄物、その他の危険な物質と一緒に世界中に定期的に輸送され、いわゆる世界的な「プルトニウム経済」を形成するものと期待されていた。一方で、THORPは核廃棄物の生産量を大幅に増加させるが、その処分手段は確立されない。

The Brent Spar Controversy: Precision versus (Social) Realism?

The Public Domain as ‘Decisionist’

Conclusion

このような公的な問題の意味を課すことを前提とした場合、それはまた、人々に深く異質なアイデンティティーや価値観、オントロジーを挑発的に課すことにもなる。 このように、制度科学が正統性の危機を抱えていることは驚くべきことではないが、これは、結果についての命題交渉から、認識されていないが正当な形での専門知識が排除されることによってのみ引き起こされる正統性の危機ではない。正統性の問題というよりも、制度的な科学文化を通じた非民主的な仮定の意味の押し付けによって引き起こされた正統性の問題なのである。

科学の正統性の問題の本質と原因を誤解している。科学もまた、問題の意味を適切に定義しているとほのめかすことで、彼らは西欧の科学社会の科学的な文化的覇権を強化している。それがどのような波に乗っていようとも、科学論には、科学の文化によって隔離された、公共の意味と重要性に関する文化的・政治的な問いが本質的に何であるかを再確認するために、これ以上に挑戦的な役割があることは間違いありません1

*1:Wynne, B. (1992). Misunderstood misunderstanding: social identities and public uptake of science. Public Understanding of Science, 1(3), 281–304. https://doi.org/10.1088/0963-6625/1/3/004

*2:Collins, H. M., & Evans, R. (2002). The third wave of science studies: Studies of expertise and experience. Social Studies of Science, 32(2), 235–296. https://doi.org/10.1177/0306312702032002003

*3:Collins et al.(2002)ではこうした人々の持つ専門知を'experience-based expertise'と定義している。ここで言う「本物の専門知識を持っているが認知されていない人々」は 例えばWynneが扱ったカンブリア高原の羊農家が挙げられるだろう

*4:Wynne(2003) p. 402

*5:この「交渉」については本文中だとなかなか捉え難い概念なのだが、Wynne(2003)は脚注10にて次のように述べている。 "As so-called Wave-Two science studies authors such as Jasanoff (1990), Ezrahi (1990) and Wynne (1982) have shown years ago, in practice the ‘negotiation’ of public meanings takes place not before the conduct of propositional issues, but tacitly through that very process itself." p. 414

*6:Wynne, B. (2001). Creating Public Alienation: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs. Science as Culture, 10(4), 445–481. https://doi.org/10.1080/09505430120093586